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宮崎克則著「逃げる百姓、追う大名」江戸の農民獲得合戦

走り者とは何だったのか
江戸期における逃散は、藩や役人に対して訴えをするなど、村落規模での集団的な行動で、江戸中後期にかけて増加した。これに対して、走りは個人や家族の規模で、移住を目的とする行動である。走り者は遠くまで行くこともあるが、多くはせいぜい50~60キロメートルの範囲で移動した。それは、江戸時代になって新たに大名領や家臣知行地などの境界を区切られる以前に同じ地域圏であった範囲である。戦国期以来、物の流通や婚姻などを通して形作られてきた地域圏を背景に、縁者や知り合いから走り先の情報を得て走るのであり、目的地もなく出奔するのではなく、ある程度は落ち着き先にその後の生活の目処を立てていた。走り者の頻出をもたらしたものは、本来の居住地での過重な年貢や賦役のほかに、彼らを受け入れてくれる社会状況であった。 16~17世紀は日本史の流れの中で一つの大きな変革期であった。社会形態も大きく変わったが、農業・鉱山・建築などさまざまな技術も飛躍的に発展した。永原慶二氏は、この時期に綿作が全国的に広まったこと、そうした商品作物の栽培を通して小農経営の展開が促進されたことを指摘した。(『新・木綿以前のこと』)本書で対象とした豊前・豊後地域での具体的な木綿栽培の展開も明らかにされている。技術と生産力が発展する中で、村のあり方も大きく変動する。戦国期以来、戦争・侵略と外に向けられていた領主の関心は内に向けられ、領地を固定された大名・家臣たちは自らの領地内の発展に力を注ぐようになった。領主権力による計画的な開発の展開とともに土豪・町人などによるよる請負開発や村方での小開墾が盛んにおこなわれ、「大開墾の時代」を迎える。開発は必然的に耕作労働力を必要とするから、領主による他領者招致策が実施され、走り者は年貢・賦役の三年間免除などの優遇策をもって迎え入れられた。
 こうした状況の一方で、領主は、大名相互の人返しや領国内の走り者返還規定などの対処を試みるが、返される者は要求のあった者に限られ、多くは走り込んだそれぞれの領地に留め置かれた。領地を固定され、多くの荒地を抱える領主たちにとって、耕作人口の増加は焦眉の課題であったので、走り者の得失は、さながら大名・家臣らによる農民獲得合戦の状況を呈していた。元和九年(1623)、細川忠興が忠利との人返し交渉で述べた「走らせ損、取どく」は、当時の領主たちの走り者に関する基本認識だったのである。
 領主らのこうした考え方が、走り者の吸引力となるが、村もまた他所者を受け入れる開放性を強くもっていた。流入者の家屋を共同で建てたり、田畑を支給するなど積極的に招きいれる背景には、村民の流出による荒地の存在があり、これが「惣作」として彼らの肩に重くのしかかっていたのである。走り者の発生が他所からの走り者を吸収する循環をなしており、荒地の多い村と開発の進む村はともに走り者をめぐる両極であった。一度の開発で一面の耕地という景観が開けたわけではなく、開発←→荒地を繰り返しながら次第に耕地の安定化が進んでいく。この継起的な開発の展開が走り者を持続的に生み出していくことになる。走り先は、村方での耕地開発のほか、城下町の建設・拡張、在町の町立て、鉱山開発など労働力を必要とする場所であり、走り者の頻出は当時の社会が経済的に大きく成長・発展していたことの証である。
江戸中後期の走り者が、商品経済の展開による農民層分解の結果析出さえれ、その多くが都市部へ流入したのに対し、前期の走り者は、開発経済に誘発された労働力移動現象であったといえる。毛利領から細川領規矩郡への走り者のうち、半数近くが「本御百姓」となっており、名子・下人層にとって、旧来から居住する村秩序の中で自立を獲得するよりも、他所へ移った方が自立の可能性は高かったのではなかろうか。
 走り者にたいする領主側の対策として、走りの阻止・禁止令や人返し規定が取り上げられ、農民の土地緊縛策として位置づけられてきたが、各地の大名が走り者関係法令を何度も発布しているのは、農民が土地に有り付いていない現実をしめすものである。しかも、走りを禁止したからといって、、なんら本質的な解決策とはなっていない。慶長期(1596~1615)、佐賀藩主の鍋島直茂は肥前三根郡の走り者発生に対して、「この先少々レンミンをくわえ、はしり候わぬ様に才覚もっともに候」と指示した。(『佐賀県史資料集成』)彼は農民へ憐憫をくわえ、その生活を保障することが走りを抑制する解決策であると認識していたが、十七世紀前半の社会状況はそれを許さなかった。
 大名領国の内部は蔵入り地のほか、多数の家臣知行地・隠居領等に分かれ、、制限されつつあるとはいえ、それぞれがある程度の独自性を保っていた。さらに、大名自身もその財政運営のあり方から過酷な搾取を実施した。大名貸しが成立していない当時にあって、大名財政は江戸・大阪間などで起こる米価の地域間格差を利用してより有利な条件で蔵米を販売史、その販売代金で旧借り分を返済史、新たに借り入れるという運営形態であり、公儀普請役等が課せられればより多量の米を高米価の市場へ迅速に運ばねばならず、勢い領民の生活をかえりみずに年貢を搾取することになった。これは家臣知行地でも同様であり、大名・家臣の支配にさらされる農民たちは、年貢に詰まって入牢・人質提出となる前に他所へ走っていく。
 この事態は決して安定的な年貢徴収をもたらすものではなく、十七世紀後半に至って、公儀軍役が実質的に軽減され、大名貸による財政運営が可能となり、知行地支配が形骸化(あるいは俸禄制への転換)してくると、農民経営を維持するための具体的な農村政策がつぎつぎに発布されてくる。細川氏の熊本移封後に実施される種子米の利下げ、賦役徴発の代銀化・適正化などの『百姓も続き、物成りも次第に上』がる農村政策の展開がそれである。
 走り者は領主だけでなく、村秩序にも大きな影響を与えた。走り者の続出による不安定な村落状況の中で、比較的安定する有力な農民は庄屋/肝煎として村政の運営を握り、領主はそうした庄屋層を介して村を支配していたが、十七世紀後半、小農民の経営が確立してくると、彼らは村方騒動などを通して村落運営を自らの手に握るようになり、領主支配のあり方も農民の村に依拠しつつ、これを把握・管理する方式へ変わっていく。そこでは、連帯責任による村請制が体制的に確立され、小農民が定着し、いわゆる閉鎖的な村社会が確立する。
 定着することのよって、彼ら小農民たちの抵抗のあり方も変わる。それまでの田畑や家屋敷を放棄する走りから、「訴」への転換である。「訴」」とは、代表越訴・惣百姓一揆・全藩一揆などと呼ばれてきた百姓一揆であり、そこでは、村を基盤として領主権力へ年貢・賦役や生産物統制について訴願するという手段をとる。「走り」後の社会は次の課題である。
by 1800_o_omou | 2007-02-14 18:24 | 講読日誌


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